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大学は統廃合して半減させるべし [少子化・高齢化・格差]

全国の4年制私立大学の39.0%が今年度、定員割れしたことが、日本私立学校振興・共済事業団の集計で分かった。入学者数を入学定員で割った定員充足率は過去最低の106.4%で、私大にとって厳しい経営環境が続いている。

少子化が叫ばれているにも関わらず大学、学部、学科の増新設が行われて来た。
もともと大学というのは高等教育を行う機関であり本来誰しもが行けるようなものではない。
もちろん、学びたいという気持ちを蔑ろにするべきではなく学びたいもの全てを受け入れるというのもありなのだろう。
ところが日本においては選抜試験を行うことで門戸を狭めておいて、入ったら最後ある程度の努力で卒業ができてしまう。

大学を出た者でも社会性もなければ教養も知識も無いものが少なく無い。
「大学で何を学びましたか」と聞くと「多くの友人を得る事ができた」「バイトをして社会の厳しさを学んだ」など大学とはかけ離れたことを言う者すら居る。

大人数のマスプロ化された大学もあれば少人数でもシッカリとした教育を行う大学もある。
一概にどのような大学にすべきと言うべきではないだろう。
しかし、今の数では多過ぎるのはまた事実である。

教育制度全体を再構築する必要はあるが、まずは大学を統廃合して今の半分に減らすべきだ。
学校教育法人を持っていると得するとか箔がつくというようなことで持っていると思われるものは排除していくべきだろう。

ただ、卒業生の情報が散逸してしまってはならないのでキチンとした措置を講じつつ早急に統廃合して欲しい。
同時に、入学を希望する者は全てを受け入れ、卒業検定は厳しくする形にすべきだろう。
合わせて、社会人でも高齢者でも入学できる生涯学習環境を整備してもらいたい。
ネットでも受講できるような環境があれば希望者は増えて行く事だろう。
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noga

英米人の脳裏には、現実の世界があると同時に、非現実の世界観 (world view) がある。

現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。

真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
話の内容が現実離れしていることに違和感がない。

現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。

日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
それは、日本語には時制がないからである。
日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
現実を現実の外にある理想に導くものではない。

西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。

英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。

考えがなければ、議論ができない。
日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
意思は未来時制の内容である。
時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。

物事の決着は、談合により行われる。
そこには、公言も宣言も必要でない。
意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。

究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。

国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
それでも、日本人は人類のために貢献している。
だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


by noga (2011-07-30 10:25) 

南雲しのぶ

nogaさん、コメントありがとう。
言語一つとってもいろいろ複雑ですからそういうこともあるのでしょうね。
by 南雲しのぶ (2011-08-04 06:41) 

silva

統合、という言い方より淘汰という意味あいの事が強調されるべき無いようだと思います。
同じ事は高校でも言えて、その意味ではこれだけ厳しい社会状況において「高校無償化」も当然廃止されてしかるべきだと考えます。
高校を中退する者が相当数に達する現状を考えれば、やる気のある者に手厚い奨学金を与え、本来は他の道に進むべき者を別の価値観で生きてゆく方向に向かわせる道が探られるべきなのだと思います。むしろ大学まで行ってからドロップしてゆく者も、大学に入れないようにしないと、出口で絞る事は事実上不可能です。(あまりにコストがかかる事と、高等教育としてのレベルを保つ事が大変に困難になるからです。)
子供の数が減ると言うことは国力が落ちる可能性が高まることです。いかに優秀な者を効率よく育てるか。また社会のインフラを整備するには旧来からある「優秀」の概念から外れそうな「力仕事系」の仕事をきちんとやってくれる人材を「劣性」の者と扱わずに「誇りをもって働いてもらえる」人材として育ててゆくか、相当きちんとした舵取りが(微妙に)行われなければなりません。社会には様々な資質の人がバランス良く配置されなければならないのです。
その意味では大学が増えすぎた事を示すデータですが、どのような社会構造を作ってゆくのか、を考える時、高校のあり方も含めて考えないと(現在の大学生の学習レベルの低下が臨界点にある事からも)上手く行かないと思います。

まずは高校無償化のお金は、高校・大学・大学院の優秀な学生の奨学金に、全額回す事から始めてもらい、大学は淘汰しましょう。大学の入学競争は恐らく高校を淘汰します。ネット教育や社会人大学院などによる教育はそのような淘汰の過程で、生き残り策として発生してくると思います。
by silva (2011-08-04 11:04) 

南雲しのぶ

silvaさん、コメントありがとう。
もちろん、淘汰の方が良いのだと思います。
ただ、silvaさんもそうだと思いますが「我が母校」が無くなってしまったらどうでしょう。
例え吸収合併であれ統合であれば機能や機構は残る。上手く行けば学校施設自体も残る。
そのため、簡単に淘汰(廃止)という方向は示せませんでした。

学校制度全体を考えないといけないことは確かです。
義務教育課程をシッカリ立て直し、それを終えれば一人前の人間として認める必要があります。
高校は本当に行きたい、行く必要がある人が行けば良い。
日本で言う高校の悪いところは、多くの人が「高等教育を受けられる」と勘違いし「高等教育を受けさせたい」と親が行かせているということです。
高校無料化と言うのであれば中学校を6年制にすれば良いだけです。

大学はキチンとした学士様を育てる組織にするべきです。
by 南雲しのぶ (2011-08-07 15:18) 

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