政治的な主張や表現の自由というものは十分に守られなければならないものだ。
しかし、住居のポストへの投函は決して「政治的主張」ではない。
なので二審が示した「他人が管理する場所に無断で立ち入ってまで政治的意見を発表する権利はない」「表現の自由の可否ではなく、その方法手段が問われている」という判決を支持する。
だいたい、ビラを投函することの何処が政治的活動なのか全くわからない。
「政治」というのは人と人が自分たちの生活を向上させるためにどうしていくのかを話し合って決めることだと私は思っている。
代議制間接民主主義をとっている日本においては議会に代議者を送る事で主張を達成しようとする。
そのために意見を集約するするための活動がビラ配りでは話しにならない。
論を異にする人に対して目を合わせて語り合う事も無く、ビラを読んで寄って来るのを待つというのは卑怯なやり方だ。
被告の一人が「今まで当たり前だったビラ配りがある日突然、犯罪になる。そのことにゴーサインを出した。司法には失望した」と発言しているが、「嫌がっている他人の住居に無断で入り込む」ことが「当たり前」だったのではない。
「ビラを読むチャンスを奪う」という識者の声があったが、路上で一人一人に手渡しすることまで奪っては居ない。
これはあくまで「投函」するだけという手抜き活動に対しての警告であろう。
日常生活というのは曖昧さがあってこそなのに一部の人間の暴走によってそれが狭まっていく。
みな、「やりすぎない」ことにより「確定」してしまわないように上手く立ち回る。
それがどうだ。
わざと問題が起こる事が予見されるようなことをして、裁判となり、最高裁まで行ってしまう。
この人たちのために、他人の住居への立ち入りを厳しくすることと、こんな微罪でも裁判にかけられ罰金刑が言い渡されるという先例を作ってしまった。
これでは逃げようが無いではないか。
法律を厳格にという流れはドンドン進んで行く。
権利権利って言うことで権利が制約されていくことにつながっているのに。
最近、実はこういう人たちこそ「権力側」であって、ここ数年続いている厳罰化を定着させるためにわざと「事を起こしている」のではないかとすら思えて来た。
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しかし、住居のポストへの投函は決して「政治的主張」ではない。
なので二審が示した「他人が管理する場所に無断で立ち入ってまで政治的意見を発表する権利はない」「表現の自由の可否ではなく、その方法手段が問われている」という判決を支持する。
だいたい、ビラを投函することの何処が政治的活動なのか全くわからない。
「政治」というのは人と人が自分たちの生活を向上させるためにどうしていくのかを話し合って決めることだと私は思っている。
代議制間接民主主義をとっている日本においては議会に代議者を送る事で主張を達成しようとする。
そのために意見を集約するするための活動がビラ配りでは話しにならない。
論を異にする人に対して目を合わせて語り合う事も無く、ビラを読んで寄って来るのを待つというのは卑怯なやり方だ。
被告の一人が「今まで当たり前だったビラ配りがある日突然、犯罪になる。そのことにゴーサインを出した。司法には失望した」と発言しているが、「嫌がっている他人の住居に無断で入り込む」ことが「当たり前」だったのではない。
「ビラを読むチャンスを奪う」という識者の声があったが、路上で一人一人に手渡しすることまで奪っては居ない。
これはあくまで「投函」するだけという手抜き活動に対しての警告であろう。
日常生活というのは曖昧さがあってこそなのに一部の人間の暴走によってそれが狭まっていく。
みな、「やりすぎない」ことにより「確定」してしまわないように上手く立ち回る。
それがどうだ。
わざと問題が起こる事が予見されるようなことをして、裁判となり、最高裁まで行ってしまう。
この人たちのために、他人の住居への立ち入りを厳しくすることと、こんな微罪でも裁判にかけられ罰金刑が言い渡されるという先例を作ってしまった。
これでは逃げようが無いではないか。
法律を厳格にという流れはドンドン進んで行く。
権利権利って言うことで権利が制約されていくことにつながっているのに。
最近、実はこういう人たちこそ「権力側」であって、ここ数年続いている厳罰化を定着させるためにわざと「事を起こしている」のではないかとすら思えて来た。
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住民の権利を最優先に