いよいよ、この22日には差し戻し審としての高裁判決が広島高等裁判所で言い渡される。
日本の裁判というのは何にしても長い。
9年かかってもまだ確定できずに居る。
この長さが「判決を教訓にできない」理由なのかも知れない。
裁判というのは加害者に罰を与えるだけでなく、社会に対して「罪を犯すとこれだけ厳しい制裁が待っている」ということを訴えかけるものでなければならない。
それには、単に「公開」していさえいれば良いというのではなく、迅速でかつ正確に裁判を行ない判決を下し、それを社会に広く知らしめなければならないものだと思う。
事件発生から日が経てば経つほど人の記憶から薄れて行き事件自体だけでなく判決への関心も薄らいでしまう。
私はこの裁判においては、最高刑となってもやむを得ないと思っている。
それはこれまで書いて来た通り、不可抗力や正当防衛でなく抵抗できない乳児を含めた「二人を死に至らしめた」ことに対して相応のものと考えるからだ。
ただ、裁判は裁判であり、どのような判決が出ようと傍観者たる私が云々するものでもない。
ただ心配なのは、一部の弁護団シンパでは、その主張全てが受け入れられるのが当然が如く思っているようで、主張が退けられた場合や検察主張に沿った判決が出た場合、「不当判決」「妨害工作があった」など勝った負けたと騒ぎ立てるのではないかということだ。
すでに最高裁判所判決で現在弁護団が必死になって主張していることのほとんどは封じられている。
彼らは一体その点をどう思っているのか、ほとんどその点の言説は見当たらず無視しているかのようだ。
ここは、最高裁判決を前提にして、弁護団側の主張をどれだけ認めてもらえるのかを見るのが流れと言う物だと思うのだが。
まぁ、見ている位置が違えば同じものでも見え方が異なる。
だからこそ、色々な意見や感想が出て来る。
それで良いのだ。
いずれにしても、この判決で終結することは無い。
再審請求を含めありとあらゆる手段を講じてくることは見えている。
そして人々の記憶から消え去ったころに最終的な結果が出るか出ないか。
悔やまれるのは、06年3月14日の最高裁弁論期日に弁護団が欠席をしなければ命日までには判決が言い渡されていたということだ。
ましてわずか1週間程遅れるという被害者や遺族とってはなんと残酷なことだろうか。
法律の世界では「命日」なんて関係ないのだろうし、正確で誠実な判決を求めるため日程を決めていることは認めるが、もう少しなんとかならなかったのか。
関連資料(判例)
最高裁判所事件番号「平成14(あ)730」判決文
広島高等裁判所事件番号「平成12(う)66」判決文
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