やはり、と言うべきなのだろうか。
山口県光市母子殺害事件で最高裁判所は原判決を破棄し広島高裁への差し戻しを言い渡した。
これで、高裁レベルでの審理が始まる。
こういう場合は、上級審である最高裁の影響を受けて死刑が言い渡される可能性の高い審理となる。
そして、人権派弁護団は、ありとあらゆる手段を持って死刑の回避をはかるだろう。
例え差し戻し審で死刑判決が出たとしても被告側が再度最高裁に上告することができる。
また長い闘争が始まるということだ。
司法の世界に住む人々からすれば当然のことであって守られるべき被告の人権を守るためなのだから時間をかけて審理すれば良いという事になるだろう。
しかし、本当にそれで良いのだろうか。
社会はまた待ちぼうけをすることになる。
社会はこの事件を通じて反省をしなければならない。
人が無慈悲に殺されたことについて考え、二度と起こさぬための努力をしなければならないのだ。
それが司法の判断がでなければ本当の意味での反省ができない。
だからこそ早くに結論をだすことも司法の務めだと私は思っている。
先日、被告の父親がテレビに出ていた。
「被害者遺族になにか謝罪は」との問いに「私に何が謝罪できるのですか」と答えていた。
そして「謝罪できる機会があったなら謝罪していた」とも答えていたが「7年間一度も機会がなかったのですか」と問いつめられ絶句していた姿をみて、被告の置かれた家庭環境に理由を見いだせたような気もする。
だからと言って許されるわけではないが。
高裁差し戻し審は1年程度はかかると言われている。
下手すると1年半、2年とかかるらしい。
事件から10年近くが経ってしまうことになる。
そうなると時代は既に進み、新たな矛盾をはらむことすら考えられる。
なによりも凶悪と言われる少年事犯が増えて来ているように見える。
この事件が歯止めにはなっていないということを現しているように思えてならない。
反省の出来ない社会は法によって呪縛された単なる無法国家になってしまうだろう。